夢追い人の凱旋

「楽しい!」をください。

Re:1st Atelier [第3回] / 僕の記憶上、唯一。

今回は盛りだくさんだ。

タイトルに第3回と銘打ってあるが、その前に第2回について書いておきたい事がある。

第2回のRe:を書くにあたって「いやいやこんな事は書くまいよ」と削除してしまった部分があるのだが、それがどうやら間違いだったようで。ブログを開けば最新記事として件のページが開かれるのだが、それを見る度「書いてもよかったのかもなあ」と考えが頭をよぎるのだ。追記でもしてしまえばいい話なのだが、だがしかし、あの後先考えていないはちゃめちゃなテンポを乱す事に気が引けてしまう。かと言ってそれを1記事にしてしまおうかと言われれば、それほど大層な内容でもない。ツイッターに載せるのも一手だったが、垂れ流すには少し億劫で、考えが良い方向に纏まらないままもうすぐ第4回が発売されようかという今日この頃なわけなのである。(発売された、間に合わなかった。)

これだけべらべらと書いておいて、要は「話は先々月まで遡りますのでご容赦ください」が言いたい。あと「自分が分かればそれでいいと思って書いています」。

 

 

北斗くんが聞かせてくれた「コローのアトリエ」との出合いに、私はひどく共感した。「わかるよ」と思った。その蕩けた瞳を浮かばせる彼の打った文字達をもって、私は彼を同士と見なした。そして嬉しかった。今まで「わかるよ」と言ってくれる人にも、言いたくなるような人にも出会わなかったからだ。

そう、出会わなかったのである。あまつさえ「それは違う」と言われたのである。

何が違っていて何に対して可笑しさを覚えるのか、まあ検討は付いていたが、まるで狂言者を見ているような怪訝な顔をされるのが心外だった。心外ではあったが、私は反論するでも泣き出すでもなく、ただ「それ」の話をしなくなった。大切な存在を仲違いの材料にするほど愚かではない。そしてそれと同時に「誰の中にもひとりはそういう存在が居る」という認識の誤りを幼いながらに何となく察した。例えるなら、「みんなアイドルが好き」と思い込んでアイドルのアの字も知らないような人に推しの存在がいかに尊いかを話しても退屈極まりないだろうし、その上ノロケなんて論外中の論外。多分そんな感じ。人間であれば実際に会わせて知り合いにしてしまえばいいが、残念ながら私の大事な人は生きていなかった。というか存在しているのは読み手の数だけ正解がある「小説」という文字の世界だった。無理やり読ませたとて、相手に「私の大事な人」は見えない。

第1回で触れていた「きりこについて」がまさにそれだ。私にとっては「読んだことある小説」の中の1冊でしかないが、北斗くんにとっては「忘れられない出会い」を生んでくれた1冊。どちらも正解。どちらも素直に感想を抱いた結果に過ぎない。誰も悪くない。でも私には「北斗くんの大事な人」が見える事はない。推し量ることは出来ても、きっと一生見えはしない。

 

「それ」は「感想」の延長でしかない。感想はその人の歴史や感性が作り出すもので、他人がどうこう出来るものじゃない。それに気付いてから私は「それ」を生み出してくれた作品を薦めることすらしなくなった。

北斗くんもそうではないだろうかと思うのだ。初めてのエッセイ連載のタイトルに起用してしまうくらい思い入れがあるはずなのに、彼は第2回に「コローのアトリエ」の話を持ってきた。注目の集まる第1回にはおくびにも出さなかった。第2回の冒頭にひっそりと、彼女との甘い記憶を綴っていた。だから「わかるよ」と思ってしまった。自分にとっての「それ」と同じような出合いをして、経験をして、同じような選択をしたのではないだろうか。と安易に想像出来てしまった。

 

 北斗くんのぽっかりを埋めたのはキャンバスの上の絵の具。私のぽっかりを埋めたのは紙に連なる真っ黒な語群。客観的に言えばそれでしかない。会った事なんてないし、そもそも生きてない。しかし私には、もしそうならば北斗くんには、特別な恋心の行方であり、生涯忘れたくない愛おしさの塊なのだ。「それ」を恋と呼ぶにはあまりにも思考を放棄しているようで自分でも笑ってしまうが、でも、胸が押しつぶされそうなのに呼吸が楽になる感覚は、悔しいが恋と呼ぶに相応しいと思えてしまう。

 

 

数行から感じ取っただけなので、私にとっての「それ」と北斗くんにとっての「それ」は全くの別物だろう。そうであってほしい。と言うよりは私のひとりよがりな思い込みであってほしい。作者に答え合わせを求めるなんて野暮なことはしたくないし、自分が抱いた感想に対して「合ってるかな」「全然違ってたりして」とわだかまりを残したままにしておきたいのだ。簡単に言えば、なるだけ味わっていたい。彼がまた「コローのアトリエ」に蕩けた瞳を向けるその日まで、正否は先延ばしにして彼の言葉を堪能していたいのである。

 

 

 

ここから、第3回について。

 

「親と子のわだかまり」というのは、きっとどの親子の中にも大なり小なり存在しているものだろう。だがそれをあけすけに話題にする人は少ないと思っている。家族の関係性、親と子の関係性はまさに十人十色で、たとえ女子会なり昼休みなりで「嫌い」「死ねばいい」のワードが出たとして、それが確かな愛情の交換の上に成り立つただの憂さ晴らしなのか何の比喩でもない本心なのかは計り知れない。それだけ「家庭」にはふり幅があって、どれも間違いではなかったりする。だから家族関係の話、とりわけ親子の話はカウンセラーとかそういう話をしていい人か、自分の家庭環境をある程度理解している極僅かな人にしか話したくない。それが私の 「家族の話」に対する考え方だ。

 

つまりビックリした。そんな簡単に、いや簡単ではないのかもしれないけれど、こんな場所でポンポン話していい話なのかい?と寒気がした。自分に置き換えて恐ろしくなった。エッセイは北斗くんの父親に対する我が子としての謝罪と、幼い自分に対するお小言で終わっていた。北斗くんの中でこの「親と子のわだかまり」は終結しているのであろうが、それでも、エッセイの中に居る空手着の北斗くんは、真っ赤に上気した頬とバクバクと唸る心臓に合わせて上下する肩を母親の腕の中に必死に閉じ込めて、目の前の父親に冷めた軽蔑の眼差しを向けていた。

 

その騒動から何がどうなったのかを知る術は勿論無いが、エッセイの話題のひとつになる程度には「親と子」は良い関係を築けているはずだ。「両親はすごく仲が良くていい夫婦だなと思う」みたいな事を言っていた気がするし、父親に投げかけていた無限ループはもう筆者の耳元で鳴ることはないと思えば、あの日の眼差しも大事な記憶の一ページに収まってくれていると想像ができた。

 

これまでの「アトリエの前で」で、私は「松村北斗」について多くの情報を得てしまった。家族構成、生まれた日の事、幼き日の可愛らしい笑い話、父との軋轢、アイドルになる前のこと。「アイドル松村北斗」になる前の、核の部分を構成するものを、彼は何食わぬ顔で話して聞かせてきた。

私が丁度この時に読み返した雑誌が悪かったのだ。SixTONESがananに初登場した号、あの卵が美味しそうな表紙の号を読み返していた。そこで北斗くんは「あなたにとっての宝物はなんですか」と聞かれ「分からないが、大事なのは内臓。」と答えていた。なんてことはない、北斗くんらしい受け答えである。でもこの「内臓」に私はとても慄いてしまった。そういうことか、いやまさか。

今までの連載で聞かされたものたちは、「松村北斗」を形作るものだ、言わば内臓じゃないか。エッセイを読む度どこかおっかなびっくりだったのは、皮を剥いで無防備な内臓をさらけ出されているからか。なんてことだ。とそんな風に思えてしまった。次号はどうなることやら、恐ろしくて仕方ない。あんこがギッシリ詰まった名店のまんじゅうと同じくらい怖い。

 

「虹の岬の喫茶店」読みました!不器用なお父さんと器用な娘の会話が可愛くて、それに父親の姿を重ねた北斗くんはこんな親子だったのかなーなんて思いました。作中に出てくる曲流しながら読むとやはり良いです。スピッツ流しながら読んだら車のあのちょっと籠った匂いまで想像出来て感動した。

 

 

北斗くんのひらがな

 

しり

ぽっちゃり

おっぱい

かわいい

おもちゃ

うつろ

ちょん

つぶやき

もはや

いったい

どなった

しゃくに障る

とだえた

つづり

もちろん

 

うつろとかどなったとか、マイナスな言葉をひらがなにしていて、有無を言わせぬ攻撃性や虚無感が消し去られてて、お父さん好きなんだなぁって思いました。

 

2019.5.20発売ー2019.6.25返信

 

 

きょもくんの連載、「東京和奏」がTOKYO walkerで始まりました!きょもくんおめでとう~!!!きょもくんのはエッセイじゃないからここでは触れないけど、こちらも定期購読済なので毎月楽しみにしてます。「アトリエの前で」も連載全体にでなくエッセイに対してだけあーだこーだ書いてるので、きょもくんのは書かない!と心に決めはしましたが、もしブログ書くならタイトルは「社会科見学TOKYO日記 1枚目」がいいなとか考えてました笑

きょもくんもいつかエッセイ書いてね!!!!!君の選ぶ言葉が知りたい!!!!