夢追い人の凱旋

「楽しい!」をください。

紙資源上の救世主。

東海ウォーカー松村北斗さんが寄稿されている「アトリエの前で」。ツイッターで感想をぺろっと書いたのですが、この感情を忘れたくないのでちゃんとブログに残しておこうと思います。ネタバレします!まだ読んでない方は実際の文章に感動を全振りしてください。よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

お世話になっております、ちくたくです。

やっっっと東海ウォーカーを手に入れました!!!!読みました!!!!!自分でもびっくりする位泣きました!!!!!最初の一文でダメだった。一文というか二文字だけど笑

当たり前ですがエッセイでこんなに泣いた事なくて。闘病エッセイとかならいざ知らず、私が読んだのは日常を切り取った普遍的なエッセイ。自分でもなんでこんなに泣いてしまうのかマジのどマジに分からなかったんです。

 なので、北斗くんが書く文章への感想の前に!なんでこんなに泣いたの?!と自分を問いただして爆泣き事件の真相解明をしたいと思います。いえーーい

 

完全に私の備忘録です。あしからず。

 

 

 

 

「衝撃。」このたった二文字を、北斗くんは記念すべき初エッセイの冒頭に置きました。次の文を読み終わる頃には涙が止まらなくて、まるで最後の力を振り絞るかのように雑誌を閉じていました。この状態で読み進めるのは困難だと脳が判断したんでしょうが、小説でもなんでも「途中で現実に引き戻されたくない」という気持ちが強い私にとって「一度文章の世界から抜け出したい」と思ったのは初めての体験で混乱したのを覚えています。

なんでこんな風に思ったのか。それはきっと北斗くんの文才をなめていたから。なめていた、というより「そう来ると思ってなかった」の方が正しいかもしれませんが、とにかく予想外だったのです。アイドルが好きでアイドルとして生きている事に誇りを持っている彼ですから、書く文章も「僕の事を好きになってね」の気持ちが滲んだアイドルらしい柔らかくてふんわりした文章なんじゃないかななんて思っていたんです。ブログほどはっちゃけて可愛らしい文章ではなくても、「可愛い人だなぁ」と思わせられるようなものだと思っていたんです。

そんな予想に反して北斗くんが最初にぶん投げてきた言葉は「衝撃。」でした。「衝撃だった。」ではなく「衝撃。」。以上でも以下でもない、何にも飾り立てられていない剥き出しの言葉。心臓に命中したのがはっきりと分かりました。

「揺さぶったのはそれ。」で完全にノックアウト。「負けた」と心のどこかで思いました。松村北斗の文才をなめていたわけではなく、私は松村北斗をなめていました。いつか過去の自分は松村北斗について「たくさんの顔を持っていて追いかけたら迷子になる」と表現しました。油断ならないと知っていたはずなのに油断したわけです。ほんのわずかな側面を知って、それが全て或いは大部分であるかのように高を括っていたのです。「北斗くんらしい文章がかけているといいなぁ」なんて上から目線で彼を知り尽くした人間のように彼の言葉を待っていた。負けました。完全に。松村北斗初のエッセイは生半可な気持ちで読んでいいものではないと痛感しました。ここで見せる彼の顔を、私は見た事がなかった。

私にとっては衝撃的な文章ですが、彼を知らない人にとってはどこにでもあるさっぱりとした文章で気負わず軽い気持ちで読めるんだろうななんて事も思いました。読むのにカロリーを使う難解な文章でも、目がチカチカしてくるきゃぴるんな文章でもない。暇つぶしにでもサラッと読めてしまえるような。流石だなぁと思うと同時に、前述した通り私は「見た事がない」と思いました。つまり「北斗くんだ!」とも「北斗くんっぽくないな」とも思っていなかったわけです。「アトリエの前で」を読んでボンヤリと見えてくるのは「2019年を普通に生きる青年」の影。「アイドルの影」は感じられないのです。

私は、「アイドル松村北斗」の顔しか知りません。新しい動画サイトが立ち上げられより素の表情が見られるようになっても、たとえ薄皮1枚であれ「アイドルの皮を被っている松村北斗」しか知らないのです。内容はアイドルにしか書けないものですが、それを文章に落とし込んでいる人間は本好きで感性の赴くままに生きてるけどちょっと理屈っぽい、過去を懐かしむ「ただの青年」にしか感じられなくて。活字作品にアイドル性を盛り込めというのも奇妙な話だとは思うのですが、ですがやはり、「唯一無二のアイドルが書いている」という事前情報をもって読む「アトリエの前で」に、私はたいへんに混乱しました。これはアイドルが書いているとは到底思えなかったのです。「普遍的なひとりの青年が書いている」と考えてやっと腑に落ちました。私が知らない町で、知らない生活を送る青年の人生を少し覗かせてもらっていると思うととても納得がいったのです。でもその青年は、雑誌に寄稿している彼は「松村北斗」である。私が今まで見てきた「アイドル松村北斗」ではなく「ただの青年、松村北斗」がそこにはいるような気がしてなりませんでした。それは私にとって初めての出会いであり、一生会う事はなかったであろう人物であり、それはまさに天地を揺るがす落雷でした。

 

 

ここまでなら良かったのです。戸惑いはしたものの、ここまでなら「北斗くんは凄い」「北斗くんはこんなことを考えているんだ」とハッピーな感情で終われたのです。でもそうはさせてくれなかった。

私は「ただの青年、松村北斗」に泣かされました。それはもう、こっぴどく。あれは嬉し涙だけではなかった。あの時私は確かに「ちゃんと受け止めなきゃいけない」と思ったのです。諦めました。何かを。

 

ではなぜ「ただの青年、松村北斗」に私はこんなにも泣かされたのか。理由はひとつ。彼が「言葉で人を救う人間」になったからです。「なった」と言っても私の主観でしかないのですが。私は北斗くんのエッセイを読んでそう感じました。

じゃあ元々お前は北斗くんの言葉に救われてこなかったのか!なんて言葉が浮かびますが、それは否。北斗くんの唇から放たれた言葉にも勇気や安心や救いをたくさん貰いました。それでも私はこのエッセイを読んで初めて「北斗くんは言葉で人を救う人間になったんだな」と思ったのです。まず第一にアイドルは「人々に夢を与える」職業です。「アイドル」の彼から溢れた言葉も嘘ではないでしょうが、真っ白な真実でもない。しかも雑誌に載っているテキスト等は言葉を聞いた赤の他人が書き起こしたものです。本筋の味は変わらなくてもどう着色されているか分からない。ニュアンスまではこちらにはどうやったって届かない。

 

 でもエッセイは違います。自分が思ったことを、自分の文才で、自分の語り口で表現できる。間違いなく純度100%、松村北斗が伝えたいことを自分の表現方法で伝えてくれるのです。それを享受できるのがとても嬉しかった。嬉しくて仕方ありませんでした。

 

何より嬉しかったのは、松村北斗が選ぶ文字と、句読点の配置が知れる事。

…たとえば。「綺麗」「きれい」「キレイ」この3つはどれも「きれい」と読みます。意味も一緒です。でも、与える印象は違う。ほんの些細なものですが、確かに違うのです。「綺麗」は見目麗しい、絢爛豪華みたいなイメージが沸きますし、「きれい」はお花畑のような柔和でほんわかしたイメージです。「キレイ」は夕日やビー玉のような刹那的に煌くものを連想させます。私だったら、の話に過ぎないですがこんな感じで同じ意味でも、ちょっとずつちょっとずつその文字で飾られた言葉に抱く印象が変わってきます。

ひらがな、カタカナ、漢字。3つの表記を併用できる日本語において、どれを使うかという事は筆者が抱くイメージに直結します。北斗くんが自ら選んだ表現に飾られた、北斗くんが描くイメージで溢れた文章を読めたのが嬉しかった。

そしてもうひとつ。「句読点の配置」です。ここから感じるのは筆者の息遣い。呼吸です。特に読点、「、」はその人の感性に一存されて打たれているので、筆者の人間性がより濃く表れると思っています。

仮に「僕なりの定義でしかないがそれらすべてに僕なりの美を感じている。」だったとしましょう。読点が無くても意味に変化は生じません。でも息苦しい。早口でまくしたてるように、或いはただの単語の連なりのように読んでしまいます。読点は楽譜で言うブレスマークだと思っています。「ここで一瞬休憩してね」みたいな。ブレスマークが無い楽譜は個人個人が好きなタイミングで息継ぎをしてリズムにずれが生じてしまいます。ブレスマークがある事で、より一体感が生まれる。文章の場合、タイミングのずれは筆者と読者の間に生まれる印象の差異であり、一体感とは文章を読む際の強弱や速度の一致、それに伴う想像の類似だと思います。

では、先ほどの文に読点を入れるとします。もし私が入れるなら「僕なりの定義でしかないがそれらすべてに、僕なりの美を感じている。」でしょうか。言い訳なんてさらっと流し読んでほしいと思いますし、ここ位までなら息継ぎなくサラッと読めるだろうな、まだ読み易いかな。と考えて打ちました。北斗くんはどんな気持ちで読点を打ったのでしょうか。読み易さ?見易さ?それともフィーリング?どれであれ、北斗くんの意思で打たれた読点。それを知れる事が、北斗くんの文章の速度が知れるのが嬉しかった。

「つまり東海人。」

「つまり、東海人。」

読点にはもうひとつ意味があると思っています。上では「読点はブレスマークだ」と書きましたが、もうひとつ。メゾフォルテ、フォルテ即ち「やや強く、強く」という記号でもあると思っています。後者のほうはトンと一拍空けて読みましたよね。この「東海人」という言葉を、北斗くんはさらりと読んでほしくはなかったわけです。流されずに、わざわざ一拍置いてから読んでほしかったわけなのです。読点がないまま読んだ「つまり東海人。」の文の東海人は、はたして読者の印象に残ったのでしょうか。憶測でしかないですが読点を打ったものより印象に残らないのでは。

読点を打つことで、言わばすごろくの全員ストップマスのように読者を一旦止まらせる。読点から句点までの言葉は、より強く印象付く。松村北斗は東海人である事を印象付けたかったと考える事が出来ます。北斗くんが打ちたい場所に読点を打つことのできるエッセイは、記号のひとつひとつまでも松村北斗の息が掛かっているのです。そんなものを読むことができる。嬉しい以外の何物でもありません。

 

 

嬉しい事ばかりなのです。泣かされたなんてまるで虐められたように書いていますが、東海ウォーカー定期購読済みです。日々の楽しみが増えました。

 

でもやはり泣かされたのです。松村北斗に、「アトリエの前で」に。

 

 

 

長々とした解説の前に「彼は言葉で人を救う人間になった。」と書きました。

  

松村北斗は「言葉を綴る人」になりました。言葉を操ることで人の琴線に触れ、感情を呼び起こさせる。文字は読む気の無い人には記号の羅列にしか見えません。ですが読みたいと思った人間にとっては、明日を変える希望になる事だってある。

「言葉は人を救う。」私の大好きな言葉です。

腹の足しにもならないし寒さをしのぐ事も出来ないけれど、それでも確かに、言葉は人を救うのです。

その言葉を彼はこれから紡いでいく。日々のこと、特別なこと、自分のこと、誰かのこと、悔しかったこと、喜んだこと、記憶に残っていること、すぐに消えていくであろうこと。それを文字に起こしていく。それを読んだ誰かが、やっと泣ける夜を迎えるかもしれない。ちゃんと生きようと思えるかもしれない。もうちょっと、と踏ん張れるかもしれない。

 松村北斗は救世主になる。誰かにとっての恩人になり、誰かにとっての神様になる。「アイドル」として人々に夢を与えるだけではなく、「ただの青年」として執筆された文章をもってして、これからより多くの人を救い癒すんだろうな、と思ったのです。

 

「言葉を書くことは、魔法に近い。」

「そして今、書く立場の入口に立っている。」

私が泣いたのはきっとこれが理由です。松村北斗は魔法を使えるようになった。使わせてもらえるようになった。それが嬉しいと同時にどうしようもなく悲しかった。松村北斗に悲しみを覚えたのではなく、弱い自分に涙が出た。彼の魔法の恩恵に与ってしまった事実に涙が止まらなかった。

私はこれから幾度となく松村北斗の言葉で救われるだろうと確信しました。冒頭を読んでボロボロと出てきた涙は「自分はどうしたってこの人に救われるんだ」という諦めからでした。私は彼らからたくさん新しい景色や感情をもらいました。それだけでもう十分なくらい。前へ前へと進んでいく背中を追いかけて、自分まで最強になれた気がしました。戯言にすぎなかった「私は弱くない」という言葉が事実になったような気がしました。だからこそ、悔しかったのです。自分もこの人たちのように強く生きたいと思っているから。対等に、彼らが自分の夢を追いかけて強く生きる姿に勇気を貰うように、私も強く生きられたら。ハリボテでもなんでも、最強を身に纏った私でありたい。強い私だけが彼らを想えればそれでいい。自分の弱さに打ちひしがれて蹲っているのなんて見向きもしないで、気付かないで、置いていって、どうか前だけを見ていてほしい。そんな事を思っているから。

それなのに彼は「僕も普通の人間だよ?」と呟いてみせる。強くなくてもいい。そう言われている気がしたのです。強くなくていいから、ただの人間同士話をしようじゃないか、と。

もうこれ以上救われてしまっては、対等になんて一生無理じゃないか。

こんなに救われてしまっては、彼らのような強い人になど一生なれないじゃないか。

悔しい。嬉しい。悲しい。大好き。もうこれ以上は受け取れない。ずっと追いかけていたい。読みたくない。読みたい。たくさんの感情が濁流となって襲ってきました。大好きだから、大好きだからこそ頼りたくないのです。優しくされたくないのです。彼を、彼らを大好きだと言う自分がこんなに弱っちくて良いわけがない。悔しい、強くなりたい。

普段どれほど気丈に、楽しげに生きていようが、私はあの日嗚咽交じりにワンワンと泣きました。「アトリエの前で」を読んで自分の弱さを痛感したから。あの瞬間私は、「私は弱くない」と言い聞かせながら涙を拭うことを諦めました。どれだけ強いふりをしようが、どうしたって私は弱い。どうしたって弱いくせに、強くなりたいという無謀な夢を諦めきれずに泣きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北斗くんはこう問うています。「僕になぜ大切な紙資源を託したのか」と。私が答えていいのなら、「誰かの宝物になる言葉を紡ぐと思ったから」。名言、至言、そんな大それたものでなく、ふと心の柔らかい部分を撫で行くような言葉をくれるから。アイドルではない、ただの青年が打ち込んだ文字たちが紙に乗り、アイドルになんて一切興味のない人の下にまで届き、幾千の人の感情をほんの少し、或いは大きく大きく揺らしてくれるから。

私がこっぴどく泣かされたように。宝物が増えたように。